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真夜中のイケさんキタさん

日々感じたこと、暮らし、おすすめを、エモくゆるく書く雑記ブログです。

人見知りで根暗がコンプレックスだった私が、一瞬でラクになった魔法の言葉

私の中にはとても頑丈な扉があります。

 

いつからこうなってしまったかは原因がありすぎてもはやよくわからないけれど、今までの人生で幾度となくこの扉を守るための自衛として"人見知り"を発揮し、なるべく目立たないように生きてきました。

 

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そんな性格を20年近く続けていたものだから、本当はもっとフランクに話したいとか、あの子みたいにノリがよくなりたいとか、だんだんと自分の性格と気持ちのギャップがしんどくなって、周りの顔色を伺うことを辞めれずにぐるぐる考えてしまうようになっていました。

 

ある日、そんな人見知りと根暗を自負している私を、とある人の魔法の言葉が救ってくれました。スーっと内に沁みて、それから物の考え方が180度変わったんです。

 

今日はそんな私を救った魔法の言葉についてお話します。

 

実の父親とさえ、まともに話せなかった20年

雛鳥が親を間違えて刷り込みをしたのではと疑うほどに、私は実の父親にすら心の内を晒せない子供でした。

 

まるで他人のように気を遣って、子供らしい甘え方やおねだりなどはできていなかったように思います。

 

 

理由は思春期でもなく、男女の差でもなく。

 

 

たしかに父は公務員だったので家を空けることも多く、とても厳格でクソがつくほど真面目で、どことなく威圧感のある人でした。

 

食卓を囲むときも誰も言葉を発さず、かといって空気を割って話しだせるほどの勇気もない、家族の顔色すら伺ってしまう子供。なんて可哀想。


サザエさん一家のような和気あいあいとした家庭環境ではなかったことも影響しているのではと思いますが、とにかく重症レベルで内向的な人見知りだったんです。

 

母や兄弟とは話せても、父だけがどうしても苦手で。それは関係の構築のせいでもあるけれど、自分の臆病な性格も相乗していたんだなぁと思います。

 

さすがに結婚してからは少しずつ話せるようになっていますけどね!

 

とにかく第三者に会話を聞かれるのがこわい

これは小学生の頃から意識しだして今もその癖は抜けないんですけど、誰かとの会話を同じ空間にいる第三者に聞かれるのがこわいというか、苦手なんです。

 

雑踏の中でべちゃくちゃお喋りするなら何とも思わないんです。カフェとか、人混みとか。

 

でも、学校や会社で自分が話しだした瞬間その場が静かになったりすると、口調とか内容をすべて聞かれて、話している様子だけで自分という人間が評価されているんじゃないかと不安になってしまう。

 

当時から自意識過剰なんだとか人見知りだからこんなに気になっちゃうんだって悩んでいました。

 

大人になるにつれて改善したのですが、調べてみたら「場面緘黙」(かんもく)の症状に似ているなぁと妙に納得しました。

 

近年、場面緘黙は、「不安症や恐怖症の一種」と捉えられるようになってきました。
「話すのが怖い」のではなく「自分が話すのを人から聞かれたり見られたりすることに怖れを感じる」ととらえて支援を行なう考えが主流となっています。

引用元:http://www.nhk.or.jp/hearttv-blog/1800/217342.html

 

場面緘黙についてはこちら

 

ちなみに話すことができないわけではないので、緘黙ではないです。もともと気にしやすい気質だったり内向的な性格が原因でなる場合もあるようですね。

 

今思えば自分自身が人が話しているところを見て表情だったり、語調だったりを無意識に観察して色んな感情を察知してしまっていたから、自分もそうされているのでは、と思い込んでいたんですね。

 

慣れない環境だと黙々と作業してしまったり、気の利いた会話ができなかったりするのが今でもあります。周りは全然気にしていないのに、一種の被害妄想というか、「自分はつまらない人間」と自分自身で敏感に感じて責めてしまうんです。

 

なので小さい頃から自分のことはずっと根暗だと思っていて、それを良くも悪くも都合よく使って生きてきました。

 

ある日言われた、魔法の言葉。

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会社の上司と同僚を交えての女子会があった時に、私は周りに自分がどう思われているのか気になって、意を決して聞いてみたんです。

 

「私って、どういう風にみえてますか?」

 

すると、上司は逆に質問返しをしてきて、私が自分のことをどう思っているのかを聞いてきました。

 

「根暗だなって思います。人見知りなので…」

 

そう答えると、上司は想像もしない回答をしてきました。

 

「キタちゃんは根暗というか、静かだよね」

 

電気が走る、なんて大袈裟な表現ではないけれど、なんでか視界がクリアになっていくというか、張りつめていた糸が緩んで、「あ、そうか…」とキョトンとしてしまったのを覚えています。

 

根暗ではなく、静か。

 

このちょっとした言葉の変換が、私の長年の呪縛を解き放つ魔法をかけてくれたんです。

  

根暗だと重々しくて、鬱々としていて、負のイメージが強いけれど、「静か」なら小川のせせらぎのような、図書館の中にいるような落ち着きと安心感がある。

 

そうか、言葉一つでこんなにも人の印象は変わるんだなって、そのときすごく感じました。言葉ってすごいものなんだって。

 

魔法の言葉は、日常に散らばっている 

そういえば高校時代の友人と居酒屋で飲んでいたときも同じようなことがあって、彼女の相談にのったことがありました。

 

彼女は職場で後輩に教える立場になったことについてすごく悩んでいて、自分は人の上に立って指導できるような柄じゃないし、言い方もうまくないからキツくなって怖いと思われる、と言っていました。

 

たしかに彼女は目つきもいい方ではないし、癒し系というよりはクールなタイプ。装いもおしゃれだから、親しみを持つというよりは憧れに近くなりやすい。日本の古風顔のせいでクールと勘違いされやすいんです。

 

でも、高校時代から知っているから言えるけれど、彼女は決して頭がよくありません。

 

それはテスト勉強ができないとかそういうのではなくて、天然というか、抜けているというか。居酒屋で焼き鳥を2本頼んでたつもりが4本だったみたいな、おバカさんをちょいちょい挟んでくるような子なんです。

 

その子と話していたときに、

 

「◯◯はクールっていうより、おバカさんだよね」

 

って笑いながら言ったら、図星だったのかその子もすごく笑ってくれたことがありました。

 

そうそう、その言葉を言ってもらいたかったの!そう思ってくれてるのあなただけだよ、ってうれしそうに言ってくれたのが、私もうれしくて。

 

そしてそのとき、私は打算的で、周りを観察して自分が得するように損得勘定で動いちゃうんだって話をしたら、

 

「◯◯は賢いよね。周りをよく見て、うまく立ち回っててすごいなって思う

 

ってその子は言ってくれたんです。賢い???

 

上司に「静か」と言われたのも、友人に「賢い」と言われたのも、本当に心の底からうれしくて、何かが足の底から込み上げてくるのを抑えきれませんでした。

 

自分の姿は、自分で決めるものじゃない

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静かで賢いのかは本当のところはよくわかりません。もしかしたらお世辞かもしれないし、本音かもしれない。でも、その言葉を私に贈ってくれたこと自体が、もうこれ以上ない財産なんです。その優しさが、私を呪縛から救ってくれたんです。

 

ずっとネガティブに自分をカテゴライズしていたけれど、わかってくれる人が傍にいてくれればそれだけでいいのかもしれません。

 

自分の姿は自分の目では見えないもの。周りのほうが、ずっとよくわかってくれている。

 

だから私がそうして魔法の言葉を贈ってもらったように、私も誰かにとってあたたかい言葉を贈れるような、そんな人になりたいと思います。